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平野顕子のエッセイ

バックナンバー 留学主婦のアメリカン・ケーキ

45歳でアメリカ留学した平野顕子のエッセイ集
(2000年創樹社・発売終了)
を加筆・転載いたします。

お楽しみいただければ幸いです。

留学主婦のアメリカン・ケーキ表紙
主婦の見た夢

アメリカ留学の夢

イリノイへの招待

幻の留学

私への投資は800万円

英語との格闘はじまる

多国籍クラスのなかで

地下のキッチンでの日本食

作文が教科書に掲載される

若いころもっと本を読んでいれば

中国人留学生の死

アメリカ式ストレス解消法

ようやく正規の大学生として

自立するアメリカの学生

ドライブ・デビュー

驚異のシルバーパワー

ニューヨークへひとっ飛び

大陸横断旅行

アメリカンケーキへの道

アメリカン・ケーキとの出会い

おしかけて、弟子入り

グレート・アメリカンケーキへの道

グレート・アメリカン・アップル・パイの

作り方のポイント

セカンド・イズ・ザ・ベスト

ベースボールとアメリカン・ケーキ

歴史で味わうケーキ作り

未知のケーキとの遭遇(1)

未知のケーキとの遭遇(2)

卒業

遅すぎることはない

あとがき

幻の留学

そして、4ヶ月くらいたった12月ごろ、日本にいる母から連絡があった。 「お正月はどうしても顔をみたいから、帰国したらどう?」 という。私としては、とにかくわけもなく楽しい毎日が続いているという感じで、ホームシックどころじゃない。

けれども、母の希望は強かった。それが虫の知らせというのかなんなのか。結局、私は一時帰国することに。しかし、なんという運命の巡り合わせか。なんという不運か。帰国して間もなく、突然、父が心臓麻痺で亡くなってしまったのだ。

実は、亡くなる一週間くらい前に、車の運転中に若者が運転する車に追突されて、「胸が痛い痛い」とは言っていた。そのことが関係があることは十分考えられた。だから、親戚やまわりでは、「解剖したらどうか」という話が持ち上がった。しかしh、母は、「体を切り刻むのはイヤだ」と言って反対した。原因が、その事故かどうかわからないでれども、たとえそうだったとしても、その若者と交渉するのもイヤだと言った。母か力を落としているのは目に見えてわかっていただけに、だれも反対はできなかった。

「これはとんでもないことになった」と、思うと同時に、自分のアメリカ生活の再開に暗雲が垂れ込めてきたのを感じた。そして、さらに不運が重なり、2週間くらいして予感は現実のものとなってしまった。なんと、今度は父の母、つまり祖母が亡くなってしまったのだ。「まるで父に連れていかれたようだ」と、誰かが言っていたが、まさにその通りとしかいいようがない。

結局、私が帰郷したわずかな期間である12月のその月だけで、わが家から二つお葬式を出すことになった。代々商売をやってきた家から、その主と母親が亡くなったのだ。その葬式の手はずだけでも大変なものだった。そのショックと疲れからか、母は、自立神経失調症になり、外に出られなくなってしまった。

今までが順調すぎた私は、180度運命が転回するような気分だった。「これは、もうアメリカには戻れないなあ」 残念だったが、そう思うしかなかった。私の姉弟は弟がひとり。まだ学生だった。一家の大黒柱を失ったからには、経済的にも余裕はなくなるだろう。母にお金の無心も出来ないし・・・・・。悲しかったこともあるが、まだ若かった私は父を恨んだ。私は父のお墓に向かって涙ながらに言った。「どうしてこんな時に死んじゃったのよ」

それっきりイリノイにはもう戻らなかった。アメリカに置いてある自分の荷物をとりにさえ、戻れるような状況ではなかった。当然、留学の夢も立ち消えになってしまった。ほんとうに幻のアメリカ留学だった。そして、3年して私は結婚し、子どもが二人生まれ、主婦として、母親として、ごく普通の生活を送ることになった。

その生活がどんな意味をもっていたのか。東京に出てきたばかりのころは、とてもまだ振り返る余裕はなかった。しかし、その間を飛び越え、ともかく私は、自分の青春時代の夢へと、まるで時計の針をもとに戻すように、立ち返ることしにした。もう一度チャンスがめぐってきたのだ。ひとりで身軽に自分のために。そう思うと、人生も捨てたもんじゃない。北陸から東北へ、そして、アメリカへ、私は飛ぶことにした。

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