エッセイ
ESSAY
ESSAY
Ⅰ 主婦が見た夢
1.アメリカ留学の夢
2.イリノイへの招待
3.幻の留学
4.私への投資は800万円
5.英語との格闘はじまる
6.多国籍クラスのなかで
7.地下のキッチンでの日本食
8.作文が教科書に掲載される
9.若いころもっと本を読んでいれば
10.中国人留学生の死
11.アメリカ式ストレス解消法
12.ようやく正規の大学生として
13.自立するアメリカの学生
14.ドライブ・デビュー
15.驚異のシルバーパワー
16.ニューヨークへひとっ飛び
17.大陸横断旅行
Ⅱ アメリカンケーキへの道
18.アメリカン・ケーキとの出会い
19.おしかけて、弟子入り
20.グレート・アメリカンケーキへの道
21.グレート・アメリカン・アップル・パイの
作り方のポイント
22.セカンド・イズ・ザ・ベスト
23.ベースボールとアメリカン・ケーキ
24.歴史で味わうケーキ作り
25.未知のケーキとの遭遇(1)
26.未知のケーキとの遭遇(2)
27.卒業
28.遅すぎることはない
29.あとがき
1
アメリカ留学の夢
「これからどうして生きていこう」 ひとりになってしばらくしてから私は、漠然と思い始めるようになった。
夫と別々の生活をしてひとりになったときには、しばらくは安堵と開放感に浸っていた。しかし、それもしばらくすると、それまで22年間、地方で平凡な主婦の生活をしていた私は、行き先のない自分将来に漠然とした不安を感じた。結婚生活とは、いいも悪いも、ある程度予定された明日があった。それがなくなったのだ。
別居にいたるまでは、それなりに長い間ずっと考えてきた。その結果こういうことになったのだ。しかし、それほど考えあぐねてきたのに、その先のこととなると、実はあまり具体的に新しい自分の生活など思い描いてこなかった。
のんきというかなんというのか。普通なら40代も半ばになり、生活力もなくひとりになるのだから、まずしっかりと将来計画を立てて別居や離婚をするものだろうが、とにかく「なんとかなるだろう」という気持ちで人生の再スタートを切ってしまったのだ。
22年にわたる慣れ親しんだそれまでの生活からすれば、180度の違った生活をするのはわかっていたものの、「新しい出発をするには、かなりのエネルギーや覚悟がいるなあ」と、改めて感じるようになった。
今までのものをまずそぎ落としてからでないと、新しいことはできないこともわかった。でも、いったいこの先何をしたらいいのだろう。こんなことをいっているようでは、成人した娘や息子にまた何か言われるかな、と楽天的な私も一度は考え込んでしまったのだ。
私は結婚後、地方都市で新生活をはじめて以来、ずっとそこで暮らしてきた。が、娘も息子も大学に入り家を出て暮らすようになっていたので、別居を機に私もそのまちを離れて東京で暮らすことにした。
かねてから私は、子どもたちが20歳になったら、夫とは別々な生き方をしようと心の中で決めていた。幸い、二人とも自分なりのしっかりした考えをもった大人に育ってきたので、時機到来。幸い娘は、すでに東京の大学に通っていたので、彼女の住む場所にころがりこむ形になってしまった。
さて、これで住む場所はなんとかなったが、それだけでは生活できない。生活の糧をなんとかしなくてはいけない。夫との話し合いで、私にも少しばかりの生活費が入ることになっていた。これにアルバイトをすれば、なんとかなるだろう。しかし、そんな私の気持ちに対して娘はガツンと言った。
「お母さん、それは世間知らずもいいとこよ、バカよ」 よくよく考えてみれば、それはそうだ。主婦だけやってきたからか、やはり考えが甘い。これだけじゃ都会で暮らしていけない。まだ先も長いし。ということは真剣に働かなくてはならないのか。
そう思って新聞の求人欄を見てみたが、まともな求人は30歳以下という条件がほとんど。おまけに世の中は不景気。主婦だけを続けてきた40過ぎの女に簡単に職などあるわけはない。厳しい現実を目の当たりにした。
何かあるはずだ。しかし、棚からぼたもちはありえない。「どないしょう」と考えた。そんなとき、ふと、私のおじが言っていた言葉を思い出した。「人間、何で生活しているかというのが、非常に大事なことである」
つまり、何で生計を立てているかというのが、人間にとって大切であるというのだ。目的のための手段であってはいけない。自分が何かをするときは、そのまっとう性を考えなさいと言われてきた。だから、私の子どもたちにも、「自分で誇れる仕事で生計をたててちょうだい」と、言ってきた。
それは、経済的に豊かでも、そうでなくてもである。そんな昔の話がふと頭をよぎり、それまでボーとした生活をしていた私は、「こんなことではいけない」と思い始めた。もともと前向きな性格なので、後ろはあまり振り返らないから、そう思ったらとにかく前へ進もうという元気が湧いてきた。
そんなとき、ふと20数年前の果たせなかった夢のことが頭のなかをよぎった。アメリカに留学するという夢である。もちろんこれは仕事じゃない。仕事とは逆に、お金とエネルギーを使うことだ。しかし、新しい人生をはじめるにあたって、何かに思いきりぶつかってみるという点では、私にとっては仕事と同じくらい重要なことに思えた。
「これだ」と思った。私は胸が高鳴るのを感じた。父の死で、あきらめざるを得なかったアメリカへの夢だ。
「よーし、アメリカ留学だ」 無謀にも私は決心してしまった。しかし、それがのちにアメリカン・ケーキの“職人”となるきっかけとなるとは夢にも思わなかった。
夫と別々の生活をしてひとりになったときには、しばらくは安堵と開放感に浸っていた。しかし、それもしばらくすると、それまで22年間、地方で平凡な主婦の生活をしていた私は、行き先のない自分将来に漠然とした不安を感じた。結婚生活とは、いいも悪いも、ある程度予定された明日があった。それがなくなったのだ。
別居にいたるまでは、それなりに長い間ずっと考えてきた。その結果こういうことになったのだ。しかし、それほど考えあぐねてきたのに、その先のこととなると、実はあまり具体的に新しい自分の生活など思い描いてこなかった。
のんきというかなんというのか。普通なら40代も半ばになり、生活力もなくひとりになるのだから、まずしっかりと将来計画を立てて別居や離婚をするものだろうが、とにかく「なんとかなるだろう」という気持ちで人生の再スタートを切ってしまったのだ。
22年にわたる慣れ親しんだそれまでの生活からすれば、180度の違った生活をするのはわかっていたものの、「新しい出発をするには、かなりのエネルギーや覚悟がいるなあ」と、改めて感じるようになった。
今までのものをまずそぎ落としてからでないと、新しいことはできないこともわかった。でも、いったいこの先何をしたらいいのだろう。こんなことをいっているようでは、成人した娘や息子にまた何か言われるかな、と楽天的な私も一度は考え込んでしまったのだ。
私は結婚後、地方都市で新生活をはじめて以来、ずっとそこで暮らしてきた。が、娘も息子も大学に入り家を出て暮らすようになっていたので、別居を機に私もそのまちを離れて東京で暮らすことにした。
かねてから私は、子どもたちが20歳になったら、夫とは別々な生き方をしようと心の中で決めていた。幸い、二人とも自分なりのしっかりした考えをもった大人に育ってきたので、時機到来。幸い娘は、すでに東京の大学に通っていたので、彼女の住む場所にころがりこむ形になってしまった。
さて、これで住む場所はなんとかなったが、それだけでは生活できない。生活の糧をなんとかしなくてはいけない。夫との話し合いで、私にも少しばかりの生活費が入ることになっていた。これにアルバイトをすれば、なんとかなるだろう。しかし、そんな私の気持ちに対して娘はガツンと言った。
「お母さん、それは世間知らずもいいとこよ、バカよ」 よくよく考えてみれば、それはそうだ。主婦だけやってきたからか、やはり考えが甘い。これだけじゃ都会で暮らしていけない。まだ先も長いし。ということは真剣に働かなくてはならないのか。
そう思って新聞の求人欄を見てみたが、まともな求人は30歳以下という条件がほとんど。おまけに世の中は不景気。主婦だけを続けてきた40過ぎの女に簡単に職などあるわけはない。厳しい現実を目の当たりにした。
何かあるはずだ。しかし、棚からぼたもちはありえない。「どないしょう」と考えた。そんなとき、ふと、私のおじが言っていた言葉を思い出した。「人間、何で生活しているかというのが、非常に大事なことである」
つまり、何で生計を立てているかというのが、人間にとって大切であるというのだ。目的のための手段であってはいけない。自分が何かをするときは、そのまっとう性を考えなさいと言われてきた。だから、私の子どもたちにも、「自分で誇れる仕事で生計をたててちょうだい」と、言ってきた。
それは、経済的に豊かでも、そうでなくてもである。そんな昔の話がふと頭をよぎり、それまでボーとした生活をしていた私は、「こんなことではいけない」と思い始めた。もともと前向きな性格なので、後ろはあまり振り返らないから、そう思ったらとにかく前へ進もうという元気が湧いてきた。
そんなとき、ふと20数年前の果たせなかった夢のことが頭のなかをよぎった。アメリカに留学するという夢である。もちろんこれは仕事じゃない。仕事とは逆に、お金とエネルギーを使うことだ。しかし、新しい人生をはじめるにあたって、何かに思いきりぶつかってみるという点では、私にとっては仕事と同じくらい重要なことに思えた。
「これだ」と思った。私は胸が高鳴るのを感じた。父の死で、あきらめざるを得なかったアメリカへの夢だ。
「よーし、アメリカ留学だ」 無謀にも私は決心してしまった。しかし、それがのちにアメリカン・ケーキの“職人”となるきっかけとなるとは夢にも思わなかった。