エッセイ
ESSAY
ESSAY
Ⅰ 主婦が見た夢
1.アメリカ留学の夢
2.イリノイへの招待
3.幻の留学
4.私への投資は800万円
5.英語との格闘はじまる
6.多国籍クラスのなかで
7.地下のキッチンでの日本食
8.作文が教科書に掲載される
9.若いころもっと本を読んでいれば
10.中国人留学生の死
11.アメリカ式ストレス解消法
12.ようやく正規の大学生として
13.自立するアメリカの学生
14.ドライブ・デビュー
15.驚異のシルバーパワー
16.ニューヨークへひとっ飛び
17.大陸横断旅行
Ⅱ アメリカンケーキへの道
18.アメリカン・ケーキとの出会い
19.おしかけて、弟子入り
20.グレート・アメリカンケーキへの道
21.グレート・アメリカン・アップル・パイの
作り方のポイント
22.セカンド・イズ・ザ・ベスト
23.ベースボールとアメリカン・ケーキ
24.歴史で味わうケーキ作り
25.未知のケーキとの遭遇(1)
26.未知のケーキとの遭遇(2)
27.卒業
28.遅すぎることはない
29.あとがき
6
多国籍クラスのなかで
翌日、ELSの手続きなどを済ませると、10日後くらいに授業が開始した。英語をつかうのは、20年ぶりくらいなので、「通じるかな」と不安だったが、実際に会話をしてみると、「わっ、通じる」。うれしかった。 空港に迎えに来てくれた男性が「あなたの英語は聞き取りやすい」と言ってくれたので、これに気をよくしていたこともあったが、中学の時、培った基礎が、こんなところで役に立つとは。勉強は、若い時にやるべきだと、つくづく身にしみて思った。
この英語専門の講座は、外国人でもすでに大学院の院生や大学生がほとんどを占めていて、私のように英語が勉強したい、あるいは大学に入学するためにTOEFLの点数を上げたいと希望する生徒は20%くらいしかいない。したがって授業はかなり高度で、年のせいか、記憶力の限界を感じる私のような学生には、いくら勉強しても追いつかないといったほどのレベルだった。
クラスメートは、ほとんんどが20代から30代の前半で、出身国も千差万別。イタリア、スペイン、タイ、サウジアラビア、コロンビア、ブラジル、エチオピア、台湾、韓国などからやってきている。全員で50人ほどだが、このなかで韓国人だけがダントツで18人もいる。これだけ多いと彼らはときどき母国語で話すときがある。そうすると先生が、「イングリッシュ!」と、大声を出す。こんな田舎の州立大学で、これだけの人数がいるということは、全米の大学にはかなりの韓国人がいるのだろう。
日本人は私ひとりだけで、40歳を過ぎたおばさんも私だけだった。しかし、途中から私と同世代くらいの男性が1人授業を受けるようになった。彼は、介護犬の訓練士になりたくて、家族とともに来ているといったが、ビザの関係でまず学生として、ELSに通って、訓練士の学校にも通っているらしかった。
授業が始まる前にクラス分けのテストがあって、4クラスに分かれることになった。2組が進んでいるアドバンスで、あとの2組が普通のクラスだった。私は、なぜかアドバンスに入れられたが、ついていくのがやっとの状態。授業は1月の終わりから5月の終わりまでの約4ヶ月間で、とにかく必死で英語との格闘が続いた。平日は勉強漬けの毎日で、ほかのことを考える余裕はまったくなし。
それでもクラスメートたちとはいつしか親密になり、クラス内での会話のやりとりは、それぞれのお国柄も反映して大変面白いものだった。クラスメイトは、「日本人はどういうものを食べているのか、何が主食か」「どんな家に住んでいるのか」「離婚率は高いのか」などと私に聞いてくる。
アジアやアフリカなど、日本では聞けないような国の話が聞けることも、とても面白かった。たとえば、犯罪についての話題のなかで、コロンビアの学生が、コロンビアでは子どもが生活のために殺人を犯してしまうという。これには一同唖然とする。一方、ケニアの留学生が自国の貧しいストリート・チルドレンの話をすると、誰かが「えっ、ケニアにちゃんとした道路があるの?あれはただの道じゃない?」といい、大議論になり、最後はみんなで笑いころげてしまった。
サウジアラビアとイラクは国際的には犬猿の仲だが、あるサウジアラビア人の留学生は、敵対する側のフセインにそっくり。その彼はすごく人なつっこい性格で、とにかく社交的で遊び好き。なにかというとすぐクラスメイトに電話をかける。やれ、試験が終ったからパーティーをしようとか。試験の前でも、来週から試験に突入するからパーティーしようとか。常にイベントのことを考えている。結局みんな誘われるといやとも言えずに、パーティー開催となるが、それはそれで愉快だった。
校舎の地下にある食堂では飲酒は禁止されているが、それを無視してビールを飲んだり、それからバーに出かけて行っておしゃべりしたり。「あなたの国は、お酒を飲んではいけないんじゃないの?」と私が聞くと、「本当はいけない。イスラム教だから。でも、心の中で思っていればいい」と返事が返ってくる。お酒は飲むし、タバコは吸うし、イラク人とは会話をするしで、普通だったら見られない場面だねえ、などとクラスの仲間で話していた。こうした国際色豊かな人々とのつきあいもあって、私には毎日展開する光景が実に新鮮に映っていた。
クラスのなかで、ちょっと異質だったのが韓国人留学生。数が多かったからだとも思うが、彼らを見ていて私は、日本人は変わったなあと思った。というのは、今まで日本人は徒党を組んで、群れて行動していたが、近頃はそうでもないようだからだ。韓国の学生は、全員群れていて、しかも、年齢など上下の差の規律がはっきりとある。目上の人への尊敬の念は絶対で、一昔前の日本人を見ているようだった。1人の韓国人学生に何かを話したら、他の学生に筒抜けになってしまうということもあった。
そして、彼らと親しくなればなるほど、「実は日本人嫌いなんです」とはっきり言う。「そういう思いはあるだろうけど、昔の戦争がどうのこうのと言ったところで、私たちのレベルでは、どうすることもできないのだから、私たちはアメリカで仲良くするしかないんじゃない」と、話したら、一応は納得してくれた。彼らの気持ちの中には、日本人に憎悪を持っていて、それはどうも小さい頃から植えつけられているらしい。テレビやビデオを見せられ、日本人がどういうことをしたかと、さんざん聞かされてきたからだろう。
大学は州立だったので、あまり財政的には豊かではないようで、建てた建物は統一されていなかった。建てられた校舎の年代が違うというのがすぐわかるというか。高い建物といっても4階くらいだった。その点、私立の大学は色から何から統一されていて、いかにもお金がありそうだなという感じで美しい。ただ、私のいた大学は敷地で言えば、京都御所がすっぽり入るくらいではないだろうか。1800年代の中ごろに建てられた大学で、中規模の総合大学だった。
私はこのキャンパスで最初に英語と一般の授業をおよそ1年半にわたって勉強したのだが、大学生として正式に学んで卒業したのは、州立イースタン・コネチカットという大学だった。これは、コネチカット大学から車で15分くらい行ったところで、単位の関係で転校をしたのだった。
コネチカット大学の周辺は、雑木林ばかりで何もないところ。学生がいるから、18,000人くらいの人口にはなっているが、これがいなかったら、500人くらいしか住んでいないらしい。つまり、町は大学だけで、近くに小さなコンビニエンスストアーがあるだけで、本当に何もないところだった。大学の近くに若者向けのバーはあったが、大人がいけるようなバーに行くには、一番近いところでも、車で30分ほど走らなくてはならない。
日本なら、車で30分は、それほどの距離ではないけれど、何もないところを飛ばして30分走るというのは相当な距離である。だから、大学内にいるかぎり、ほとんど外部の世界から孤立しているようだった。しかし、英語の授業の一環としてキャンパス外での社会見学的なものもある。そのお陰でボストンやニューヨークへも出かけられた。そういった旅行に参加することで、自分の今いる場所と他の土地との距離感がだんだん分かってくるのだった。
もう一つ、寒いというのがこんなにもすごいものなのかと痛感した。電気は使いたい放題なので、部屋や教室は、ほかほか暖かくて快適だが、一歩外に出ると、マイナス15度くらいになる日もある。声は凍り、髪の毛は逆立つようだ。だが、老人も赤ちゃんも生きているし、私も生きられるはずだと思ったし、慣れてくると不思議なことに、マイナス15度でも寒さはそれほど感じなくなってきた。
この英語専門の講座は、外国人でもすでに大学院の院生や大学生がほとんどを占めていて、私のように英語が勉強したい、あるいは大学に入学するためにTOEFLの点数を上げたいと希望する生徒は20%くらいしかいない。したがって授業はかなり高度で、年のせいか、記憶力の限界を感じる私のような学生には、いくら勉強しても追いつかないといったほどのレベルだった。
クラスメートは、ほとんんどが20代から30代の前半で、出身国も千差万別。イタリア、スペイン、タイ、サウジアラビア、コロンビア、ブラジル、エチオピア、台湾、韓国などからやってきている。全員で50人ほどだが、このなかで韓国人だけがダントツで18人もいる。これだけ多いと彼らはときどき母国語で話すときがある。そうすると先生が、「イングリッシュ!」と、大声を出す。こんな田舎の州立大学で、これだけの人数がいるということは、全米の大学にはかなりの韓国人がいるのだろう。
日本人は私ひとりだけで、40歳を過ぎたおばさんも私だけだった。しかし、途中から私と同世代くらいの男性が1人授業を受けるようになった。彼は、介護犬の訓練士になりたくて、家族とともに来ているといったが、ビザの関係でまず学生として、ELSに通って、訓練士の学校にも通っているらしかった。
授業が始まる前にクラス分けのテストがあって、4クラスに分かれることになった。2組が進んでいるアドバンスで、あとの2組が普通のクラスだった。私は、なぜかアドバンスに入れられたが、ついていくのがやっとの状態。授業は1月の終わりから5月の終わりまでの約4ヶ月間で、とにかく必死で英語との格闘が続いた。平日は勉強漬けの毎日で、ほかのことを考える余裕はまったくなし。
それでもクラスメートたちとはいつしか親密になり、クラス内での会話のやりとりは、それぞれのお国柄も反映して大変面白いものだった。クラスメイトは、「日本人はどういうものを食べているのか、何が主食か」「どんな家に住んでいるのか」「離婚率は高いのか」などと私に聞いてくる。
アジアやアフリカなど、日本では聞けないような国の話が聞けることも、とても面白かった。たとえば、犯罪についての話題のなかで、コロンビアの学生が、コロンビアでは子どもが生活のために殺人を犯してしまうという。これには一同唖然とする。一方、ケニアの留学生が自国の貧しいストリート・チルドレンの話をすると、誰かが「えっ、ケニアにちゃんとした道路があるの?あれはただの道じゃない?」といい、大議論になり、最後はみんなで笑いころげてしまった。
サウジアラビアとイラクは国際的には犬猿の仲だが、あるサウジアラビア人の留学生は、敵対する側のフセインにそっくり。その彼はすごく人なつっこい性格で、とにかく社交的で遊び好き。なにかというとすぐクラスメイトに電話をかける。やれ、試験が終ったからパーティーをしようとか。試験の前でも、来週から試験に突入するからパーティーしようとか。常にイベントのことを考えている。結局みんな誘われるといやとも言えずに、パーティー開催となるが、それはそれで愉快だった。
校舎の地下にある食堂では飲酒は禁止されているが、それを無視してビールを飲んだり、それからバーに出かけて行っておしゃべりしたり。「あなたの国は、お酒を飲んではいけないんじゃないの?」と私が聞くと、「本当はいけない。イスラム教だから。でも、心の中で思っていればいい」と返事が返ってくる。お酒は飲むし、タバコは吸うし、イラク人とは会話をするしで、普通だったら見られない場面だねえ、などとクラスの仲間で話していた。こうした国際色豊かな人々とのつきあいもあって、私には毎日展開する光景が実に新鮮に映っていた。
クラスのなかで、ちょっと異質だったのが韓国人留学生。数が多かったからだとも思うが、彼らを見ていて私は、日本人は変わったなあと思った。というのは、今まで日本人は徒党を組んで、群れて行動していたが、近頃はそうでもないようだからだ。韓国の学生は、全員群れていて、しかも、年齢など上下の差の規律がはっきりとある。目上の人への尊敬の念は絶対で、一昔前の日本人を見ているようだった。1人の韓国人学生に何かを話したら、他の学生に筒抜けになってしまうということもあった。
そして、彼らと親しくなればなるほど、「実は日本人嫌いなんです」とはっきり言う。「そういう思いはあるだろうけど、昔の戦争がどうのこうのと言ったところで、私たちのレベルでは、どうすることもできないのだから、私たちはアメリカで仲良くするしかないんじゃない」と、話したら、一応は納得してくれた。彼らの気持ちの中には、日本人に憎悪を持っていて、それはどうも小さい頃から植えつけられているらしい。テレビやビデオを見せられ、日本人がどういうことをしたかと、さんざん聞かされてきたからだろう。
大学は州立だったので、あまり財政的には豊かではないようで、建てた建物は統一されていなかった。建てられた校舎の年代が違うというのがすぐわかるというか。高い建物といっても4階くらいだった。その点、私立の大学は色から何から統一されていて、いかにもお金がありそうだなという感じで美しい。ただ、私のいた大学は敷地で言えば、京都御所がすっぽり入るくらいではないだろうか。1800年代の中ごろに建てられた大学で、中規模の総合大学だった。
私はこのキャンパスで最初に英語と一般の授業をおよそ1年半にわたって勉強したのだが、大学生として正式に学んで卒業したのは、州立イースタン・コネチカットという大学だった。これは、コネチカット大学から車で15分くらい行ったところで、単位の関係で転校をしたのだった。
コネチカット大学の周辺は、雑木林ばかりで何もないところ。学生がいるから、18,000人くらいの人口にはなっているが、これがいなかったら、500人くらいしか住んでいないらしい。つまり、町は大学だけで、近くに小さなコンビニエンスストアーがあるだけで、本当に何もないところだった。大学の近くに若者向けのバーはあったが、大人がいけるようなバーに行くには、一番近いところでも、車で30分ほど走らなくてはならない。
日本なら、車で30分は、それほどの距離ではないけれど、何もないところを飛ばして30分走るというのは相当な距離である。だから、大学内にいるかぎり、ほとんど外部の世界から孤立しているようだった。しかし、英語の授業の一環としてキャンパス外での社会見学的なものもある。そのお陰でボストンやニューヨークへも出かけられた。そういった旅行に参加することで、自分の今いる場所と他の土地との距離感がだんだん分かってくるのだった。
もう一つ、寒いというのがこんなにもすごいものなのかと痛感した。電気は使いたい放題なので、部屋や教室は、ほかほか暖かくて快適だが、一歩外に出ると、マイナス15度くらいになる日もある。声は凍り、髪の毛は逆立つようだ。だが、老人も赤ちゃんも生きているし、私も生きられるはずだと思ったし、慣れてくると不思議なことに、マイナス15度でも寒さはそれほど感じなくなってきた。