エッセイ
ESSAY
ESSAY
Ⅰ 主婦が見た夢
1.アメリカ留学の夢
2.イリノイへの招待
3.幻の留学
4.私への投資は800万円
5.英語との格闘はじまる
6.多国籍クラスのなかで
7.地下のキッチンでの日本食
8.作文が教科書に掲載される
9.若いころもっと本を読んでいれば
10.中国人留学生の死
11.アメリカ式ストレス解消法
12.ようやく正規の大学生として
13.自立するアメリカの学生
14.ドライブ・デビュー
15.驚異のシルバーパワー
16.ニューヨークへひとっ飛び
17.大陸横断旅行
Ⅱ アメリカンケーキへの道
18.アメリカン・ケーキとの出会い
19.おしかけて、弟子入り
20.グレート・アメリカンケーキへの道
21.グレート・アメリカン・アップル・パイの
作り方のポイント
22.セカンド・イズ・ザ・ベスト
23.ベースボールとアメリカン・ケーキ
24.歴史で味わうケーキ作り
25.未知のケーキとの遭遇(1)
26.未知のケーキとの遭遇(2)
27.卒業
28.遅すぎることはない
29.あとがき
12
ようやく正規の学生として
ELSの授業と一般の授業をとりながらおよそ1年半が過ぎて、私はようやく正規の大学のカリキュラムにのっとったコースを歩むことになった。英語が多少不安だったこともあり、かなり長い間ELSに費やしてしまったからだ。でも、正直言ってまだ不安だった。これで卒業まで行けるのだろうか。これだけ英語を勉強しても、能力が向上していないのではないかという気持ちはあった。しかし、ここまで来てあれこれ悩んでも仕方ない。経済的なる理由からも残されている短い時間のなかで、なんとか卒業をめざして走るしかなかった。
まず、学部と専攻をしっかり定めなくてはならない。そこで、大学の相談室にいって、何学部に進むかを相談したところ、年齢的なこともあってか、生涯学習のような学部に行くことを勧められた。そして、そのなかでファインアート(芸術)をメジャー(専門専攻科目)にすることにした。というのは、以前、私は京都の実家で能衣装の唐織の半襟のデザインをしていたことがあったからだ。今思えはその頃は、私はこうした仕事に打ち込むことで、夫婦の関係から目をそらし、自分の気持ちをそらせていた気がする。
私は日本では短大卒で、そこでの履修課目がどの程度アメリカの大学で考慮してもらえるかが一つのポイントになった。また、それまで履修した一般授業の単位も卒業までには加算してもらえるので、これらをベースに必要科目をクリアすることを考えた。
その結果、ファインアートを中心にして履修の計画ができたが、基本的な科目で不足するものがいくつかあった。それを履修すればいいのだが、コネチカット大学にいるかぎり、卒業するには、予定より少し長く時間がかかりそうだった。
そこで、たまたま近くに、やはり同じ州立大学であるイースタン・コネチカット大学があったので、念のため、そこに相談しに行ってみた。すると、履修科目について、私がこれまでとった単位をかなり幅広く計算してくれるということがわかった。この大学なら、1年半くらいで卒業できる見通しがついたので、そこで、思い切って転校することにした。
メジャーとしてファインアートをとり、ほかにマイナー(副専攻科目)としては哲学をとることになっていた。このほか、卒業までに必修でとらなくてはならない単位がいくつかあったが、とくに数学の単位がこれまでに満たされていないので、それを取らなくてはいけないことがわかった。これにはまいった。「この歳になって数学を、それも英語で」私は、頭を抱えてしまった。結局数学は6単位不足しており、基礎解析と小学校の先生になるための数学という二つをとるころになった。
そのほかには、必修として、スポーツもやらなくてはいけなかったが、科目はスカッシュで、私はたまたまテニスをしていたので、これは成功。「A」をとることができた。
そして、とにかく、やさしくできるものをと思って、環境学やモダンダンスの概論、女性のアーティストの概論、実技のペインティングをとった。
英文学や英語だけを主に習っていたときと違って、科目がたくさんあるから勉強でも科目によって、頭を切り替えることが必要だった。特に数学などはひらめきが大切である。眠っている頭ではとてもできない。図書館でやってみたり、ベンチでやってみたり環境をかえてみたり。こんな調子だったので予習復習をやる余裕はなかった。
数学の内容自体はたいしたことはなかったが、それを英語で理解したり、説明しようとすることはほんとうにしんどかった。仕方なく、教えてもらおうと思って、わざわざ日本にいる息子に電話した。すると、息子は国際電話で冷たく言う。「僕の高度な説明には、きっとお母さんはついてこれないから、先生に習いなさい」と。「冷たいじゃないの」と、思っても海の向こうだからどうしようもない。結局、日本人の青年に教えてもらって、なんとか難関をくぐり抜けることができたからよかったものの、一時はどうなることかと思った。
しかし、これよりさらに私にとって難解だったのがコンピュータの授業である。これは死闘だった。ただでさえ、それも日本語でさえコンピュータについては、私は理解不足である。それを、理論的に英語で説明されても、まったく何もわからなかった。チンプンカンプンとはまさにこういうことをいうのだろう。
先生が授業で説明しているのを聞いても、ボーっとしているしかない。授業のわからない子どもが学校に行って長時間黙って席に着いていろ、といわれることがどんなに苦痛かはじめてわかったような気がした。
しかし、これをとらなくては卒業できない。卒業できなければ、アメリカでの努力もただの遊学に終わってしまう。いったいどうしたらいいものだろうか。そこで私は先生に相談に行った。「コンピュータ世代でもないし、私にはまったく分からない。でも私はこれを落としたら卒業できないし、日本には帰れない。どうしたらいいんでしょう」言い訳というか、なかば脅しのような泣き落としのような感じにも聞こえたかも知れないが、私は訴えた。それしかなかったのである。
すると、先生は「とにかく授業に出席しなさい」と、言ってくれた。参加することに意義があるというわけだ。それならと、わかろうがわかるまいがその授業は一日も休まずきちっと出席。一般に成績は、中間、期末試験と出席状況の三本柱で評価される。だから、まずこれで百点満点中33点は確保することができた。ちょっとせこいはなしだけれど、合格の点数は「C」をとれはいいので、なんとか切り抜けることができた。
授業では、一週間に一度クイズがあった。どういうものかと言えば、例えば「A社の業績が落ちてきたので、B社と合併をした。それによって、その後A社がどのように発展を遂げたのかを、グラフを使って証明せよ」といったようなもの。問題だけでも難しいのに、それをコンピュータを使って説明するのだから、本当に苦しかった。
基礎的なコンピュータ用語も教えてもらったが、全て頭から抜けていった。というのは、すでに頭のなかは英語やらなにやらで飽和状態になっている。私の頭に詰め込める知識の容量というのは決まっているから、ほかのものを追い出さないと入ってこない。かといって、すでに入っているものを追い出したらそれは困る。だから、頭から抜けていくしかなかった。
子どもなら、つぎつぎに新しい細胞に吸収されていくのだろうが、こちらは脳のひだが衰えているというのか、毎日1億5000万個細胞が死んでいくというか、それが実感できるほどだった。
授業中は隣の人のを見せてもらったり、とにかく必死だった。だから試験が終ったら、コンピュータのことはどうでもいいと、すべてきれいさっぱり忘れてしまった。でも、一方では先生に、「私はこのクレジットがないと、卒業できない。お願いします」と話すことだけは忘れなかった。 そのほか授業全体を通して、ほんとうは予習しなくてはいけないのだが、ELSのときとちがって、その余裕はまったくなかった。どうしてもその日のことを、授業の場だけでは理解できなかったので、復習をするのが精一杯だった。
英語についてもだんだん耳慣れてきたが、悲しいことに、単語が頭に入ってこない。まさに、三歩前進二歩後退という感じ。年齢のせいなのか。特に英語のライティングのクラスでそれを痛感した。授業では、先生の質問に対して、コンピュータを使って即答していかなければならないが、英語で書いて、キーボードに打とうとしていると、次の質問になってしまう。隣にいた男子学生に聞いたりしながら、なんとか追いつくのが精一杯。この学生もコンピュータは苦手だったようだが、実は彼は全米の大学バスケットボールでは有名な花形選手だったことがあとでわかった。いま思えば、サインをもらっておけば良かったかな。
まず、学部と専攻をしっかり定めなくてはならない。そこで、大学の相談室にいって、何学部に進むかを相談したところ、年齢的なこともあってか、生涯学習のような学部に行くことを勧められた。そして、そのなかでファインアート(芸術)をメジャー(専門専攻科目)にすることにした。というのは、以前、私は京都の実家で能衣装の唐織の半襟のデザインをしていたことがあったからだ。今思えはその頃は、私はこうした仕事に打ち込むことで、夫婦の関係から目をそらし、自分の気持ちをそらせていた気がする。
私は日本では短大卒で、そこでの履修課目がどの程度アメリカの大学で考慮してもらえるかが一つのポイントになった。また、それまで履修した一般授業の単位も卒業までには加算してもらえるので、これらをベースに必要科目をクリアすることを考えた。
その結果、ファインアートを中心にして履修の計画ができたが、基本的な科目で不足するものがいくつかあった。それを履修すればいいのだが、コネチカット大学にいるかぎり、卒業するには、予定より少し長く時間がかかりそうだった。
そこで、たまたま近くに、やはり同じ州立大学であるイースタン・コネチカット大学があったので、念のため、そこに相談しに行ってみた。すると、履修科目について、私がこれまでとった単位をかなり幅広く計算してくれるということがわかった。この大学なら、1年半くらいで卒業できる見通しがついたので、そこで、思い切って転校することにした。
メジャーとしてファインアートをとり、ほかにマイナー(副専攻科目)としては哲学をとることになっていた。このほか、卒業までに必修でとらなくてはならない単位がいくつかあったが、とくに数学の単位がこれまでに満たされていないので、それを取らなくてはいけないことがわかった。これにはまいった。「この歳になって数学を、それも英語で」私は、頭を抱えてしまった。結局数学は6単位不足しており、基礎解析と小学校の先生になるための数学という二つをとるころになった。
そのほかには、必修として、スポーツもやらなくてはいけなかったが、科目はスカッシュで、私はたまたまテニスをしていたので、これは成功。「A」をとることができた。
そして、とにかく、やさしくできるものをと思って、環境学やモダンダンスの概論、女性のアーティストの概論、実技のペインティングをとった。
英文学や英語だけを主に習っていたときと違って、科目がたくさんあるから勉強でも科目によって、頭を切り替えることが必要だった。特に数学などはひらめきが大切である。眠っている頭ではとてもできない。図書館でやってみたり、ベンチでやってみたり環境をかえてみたり。こんな調子だったので予習復習をやる余裕はなかった。
数学の内容自体はたいしたことはなかったが、それを英語で理解したり、説明しようとすることはほんとうにしんどかった。仕方なく、教えてもらおうと思って、わざわざ日本にいる息子に電話した。すると、息子は国際電話で冷たく言う。「僕の高度な説明には、きっとお母さんはついてこれないから、先生に習いなさい」と。「冷たいじゃないの」と、思っても海の向こうだからどうしようもない。結局、日本人の青年に教えてもらって、なんとか難関をくぐり抜けることができたからよかったものの、一時はどうなることかと思った。
しかし、これよりさらに私にとって難解だったのがコンピュータの授業である。これは死闘だった。ただでさえ、それも日本語でさえコンピュータについては、私は理解不足である。それを、理論的に英語で説明されても、まったく何もわからなかった。チンプンカンプンとはまさにこういうことをいうのだろう。
先生が授業で説明しているのを聞いても、ボーっとしているしかない。授業のわからない子どもが学校に行って長時間黙って席に着いていろ、といわれることがどんなに苦痛かはじめてわかったような気がした。
しかし、これをとらなくては卒業できない。卒業できなければ、アメリカでの努力もただの遊学に終わってしまう。いったいどうしたらいいものだろうか。そこで私は先生に相談に行った。「コンピュータ世代でもないし、私にはまったく分からない。でも私はこれを落としたら卒業できないし、日本には帰れない。どうしたらいいんでしょう」言い訳というか、なかば脅しのような泣き落としのような感じにも聞こえたかも知れないが、私は訴えた。それしかなかったのである。
すると、先生は「とにかく授業に出席しなさい」と、言ってくれた。参加することに意義があるというわけだ。それならと、わかろうがわかるまいがその授業は一日も休まずきちっと出席。一般に成績は、中間、期末試験と出席状況の三本柱で評価される。だから、まずこれで百点満点中33点は確保することができた。ちょっとせこいはなしだけれど、合格の点数は「C」をとれはいいので、なんとか切り抜けることができた。
授業では、一週間に一度クイズがあった。どういうものかと言えば、例えば「A社の業績が落ちてきたので、B社と合併をした。それによって、その後A社がどのように発展を遂げたのかを、グラフを使って証明せよ」といったようなもの。問題だけでも難しいのに、それをコンピュータを使って説明するのだから、本当に苦しかった。
基礎的なコンピュータ用語も教えてもらったが、全て頭から抜けていった。というのは、すでに頭のなかは英語やらなにやらで飽和状態になっている。私の頭に詰め込める知識の容量というのは決まっているから、ほかのものを追い出さないと入ってこない。かといって、すでに入っているものを追い出したらそれは困る。だから、頭から抜けていくしかなかった。
子どもなら、つぎつぎに新しい細胞に吸収されていくのだろうが、こちらは脳のひだが衰えているというのか、毎日1億5000万個細胞が死んでいくというか、それが実感できるほどだった。
授業中は隣の人のを見せてもらったり、とにかく必死だった。だから試験が終ったら、コンピュータのことはどうでもいいと、すべてきれいさっぱり忘れてしまった。でも、一方では先生に、「私はこのクレジットがないと、卒業できない。お願いします」と話すことだけは忘れなかった。 そのほか授業全体を通して、ほんとうは予習しなくてはいけないのだが、ELSのときとちがって、その余裕はまったくなかった。どうしてもその日のことを、授業の場だけでは理解できなかったので、復習をするのが精一杯だった。
英語についてもだんだん耳慣れてきたが、悲しいことに、単語が頭に入ってこない。まさに、三歩前進二歩後退という感じ。年齢のせいなのか。特に英語のライティングのクラスでそれを痛感した。授業では、先生の質問に対して、コンピュータを使って即答していかなければならないが、英語で書いて、キーボードに打とうとしていると、次の質問になってしまう。隣にいた男子学生に聞いたりしながら、なんとか追いつくのが精一杯。この学生もコンピュータは苦手だったようだが、実は彼は全米の大学バスケットボールでは有名な花形選手だったことがあとでわかった。いま思えば、サインをもらっておけば良かったかな。