エッセイ
ESSAY
ESSAY
Ⅰ 主婦が見た夢
1.アメリカ留学の夢
2.イリノイへの招待
3.幻の留学
4.私への投資は800万円
5.英語との格闘はじまる
6.多国籍クラスのなかで
7.地下のキッチンでの日本食
8.作文が教科書に掲載される
9.若いころもっと本を読んでいれば
10.中国人留学生の死
11.アメリカ式ストレス解消法
12.ようやく正規の大学生として
13.自立するアメリカの学生
14.ドライブ・デビュー
15.驚異のシルバーパワー
16.ニューヨークへひとっ飛び
17.大陸横断旅行
Ⅱ アメリカンケーキへの道
18.アメリカン・ケーキとの出会い
19.おしかけて、弟子入り
20.グレート・アメリカンケーキへの道
21.グレート・アメリカン・アップル・パイの
作り方のポイント
22.セカンド・イズ・ザ・ベスト
23.ベースボールとアメリカン・ケーキ
24.歴史で味わうケーキ作り
25.未知のケーキとの遭遇(1)
26.未知のケーキとの遭遇(2)
27.卒業
28.遅すぎることはない
29.あとがき
21
グレート・アメリカン・アップル・パイの作り方のポイント
まず、小麦粉とペストリー粉を半々使う。
それを冷蔵庫で1時間ほど冷やす。
なるべく、手のぬくもりが、Botter(小麦粉などをまぜたもの)に伝わらないようにする。
次に小麦粉のなかに5ミリ角の冷えたバターとショートニングを混ぜ、フードプロセッサーで、5、6回ブレンドする。ナイフを2本使って小麦粉とバター類をブレンドしてもいい。決してやりすぎないこと。
そして、その中に冷水を注ぎ、またミックスする。冷蔵庫で約1時間おいた後、ローリングで伸ばして5ミリの厚さにして再び冷蔵庫へ。
引き伸ばした皮の中に、所々バターとショートニングの固まりが見える状態が上手な皮の作り方。リンゴは絶対にジャムのようになってはいけない。リンゴの5ミリくらいスライスした形が残っているようなものがいい。
ところで、アメリカではパイは国民的デザートともいい、人気はナンバーワンだ。その歴史は清教徒たちがニューイングランドにわたってきたとき、パイの製法を持ち込んだときにさかのぼる。その後、アメリカインディアンに教えられた野生の果物をパイにしたほか、貴重な食料をパイ皮で包めば、かさも増すので重宝がられた。
移民たちがアメリカ各地に広がっていくようになって、パイもその地方独特の味ができあがっていった。例えば、フロリダなど東海岸の南では、カリブ諸島から来た糖蜜(刈ったばかりのサトウキビから取れる濃いと糖液)で甘さをつけたものが作られるようになった。また、北部ではカエデからとるメープルシロップが使われた。中西部の酪農地帯ではクリームがよく使われるようになった。
次に、かのジョン・万次郎も食べたと言われる
『ショートブレッド』
というビスケットを習った。ジョン・万次郎は江戸末期に四国の漁師の息子で、漂流したところをボストンの捕鯨船の船長に助けられて、ニューイングランドに住み着いて、後に通訳をしたり東大の教授にもなったという歴史上の偉人である。
このジョン・万次郎が助けられたときに食べて、なんとおいしいのかと感動したのが、このビスケットといわれる。これは、名前はブレッドだが、クッキーであり、舌ざわりはサクサクしていて、それでいてなめらかなような、ザラザラもしている複雑な味が特徴。これもまた、ヨーロッパの菓子のように上品な形はしていない、無骨な物である。これを先生から習った。そうして、つぎつぎに一応私のリクエストをもとにして、教えてもらった。
ローリー先生が教えてくれた、
『チョコレートケーキ』
も独特だった。しかし、ここで私が発見したことは、味とはまた別の点だった。彼女はあくまでも採算を考えて作っているということだった。だから材料に関しては、いいとわかっていても採算に合わないものは使わないという方針だった。大量に安く手に入る物を使っていた。そこが後に習った他の先生とは少し違った。あくまでも味本位で考える先生は、チョコレートでも別のものを使っていた。当然、味わいは変わってくる。どちらがいいというのではなく、商品性と経済性のかねあいを考えさせられたケーキだった。
一回の授業につき一種類のものをじっくり習うような形だった。そして、10月のなかごろからはじめて結局、翌年の3月までに全部で20種類くらい習うことができた。月謝は一回に約5000円だった。彼女が最初に実例を見せてくれて、その後に自分の仕事をしながら私を指導してくれた。
それを冷蔵庫で1時間ほど冷やす。
なるべく、手のぬくもりが、Botter(小麦粉などをまぜたもの)に伝わらないようにする。
次に小麦粉のなかに5ミリ角の冷えたバターとショートニングを混ぜ、フードプロセッサーで、5、6回ブレンドする。ナイフを2本使って小麦粉とバター類をブレンドしてもいい。決してやりすぎないこと。
そして、その中に冷水を注ぎ、またミックスする。冷蔵庫で約1時間おいた後、ローリングで伸ばして5ミリの厚さにして再び冷蔵庫へ。
引き伸ばした皮の中に、所々バターとショートニングの固まりが見える状態が上手な皮の作り方。リンゴは絶対にジャムのようになってはいけない。リンゴの5ミリくらいスライスした形が残っているようなものがいい。
ところで、アメリカではパイは国民的デザートともいい、人気はナンバーワンだ。その歴史は清教徒たちがニューイングランドにわたってきたとき、パイの製法を持ち込んだときにさかのぼる。その後、アメリカインディアンに教えられた野生の果物をパイにしたほか、貴重な食料をパイ皮で包めば、かさも増すので重宝がられた。
移民たちがアメリカ各地に広がっていくようになって、パイもその地方独特の味ができあがっていった。例えば、フロリダなど東海岸の南では、カリブ諸島から来た糖蜜(刈ったばかりのサトウキビから取れる濃いと糖液)で甘さをつけたものが作られるようになった。また、北部ではカエデからとるメープルシロップが使われた。中西部の酪農地帯ではクリームがよく使われるようになった。
次に、かのジョン・万次郎も食べたと言われる
『ショートブレッド』
というビスケットを習った。ジョン・万次郎は江戸末期に四国の漁師の息子で、漂流したところをボストンの捕鯨船の船長に助けられて、ニューイングランドに住み着いて、後に通訳をしたり東大の教授にもなったという歴史上の偉人である。
このジョン・万次郎が助けられたときに食べて、なんとおいしいのかと感動したのが、このビスケットといわれる。これは、名前はブレッドだが、クッキーであり、舌ざわりはサクサクしていて、それでいてなめらかなような、ザラザラもしている複雑な味が特徴。これもまた、ヨーロッパの菓子のように上品な形はしていない、無骨な物である。これを先生から習った。そうして、つぎつぎに一応私のリクエストをもとにして、教えてもらった。
ローリー先生が教えてくれた、
『チョコレートケーキ』
も独特だった。しかし、ここで私が発見したことは、味とはまた別の点だった。彼女はあくまでも採算を考えて作っているということだった。だから材料に関しては、いいとわかっていても採算に合わないものは使わないという方針だった。大量に安く手に入る物を使っていた。そこが後に習った他の先生とは少し違った。あくまでも味本位で考える先生は、チョコレートでも別のものを使っていた。当然、味わいは変わってくる。どちらがいいというのではなく、商品性と経済性のかねあいを考えさせられたケーキだった。
一回の授業につき一種類のものをじっくり習うような形だった。そして、10月のなかごろからはじめて結局、翌年の3月までに全部で20種類くらい習うことができた。月謝は一回に約5000円だった。彼女が最初に実例を見せてくれて、その後に自分の仕事をしながら私を指導してくれた。