エッセイ
ESSAY
ESSAY
Ⅰ 主婦が見た夢
1.アメリカ留学の夢
2.イリノイへの招待
3.幻の留学
4.私への投資は800万円
5.英語との格闘はじまる
6.多国籍クラスのなかで
7.地下のキッチンでの日本食
8.作文が教科書に掲載される
9.若いころもっと本を読んでいれば
10.中国人留学生の死
11.アメリカ式ストレス解消法
12.ようやく正規の大学生として
13.自立するアメリカの学生
14.ドライブ・デビュー
15.驚異のシルバーパワー
16.ニューヨークへひとっ飛び
17.大陸横断旅行
Ⅱ アメリカンケーキへの道
18.アメリカン・ケーキとの出会い
19.おしかけて、弟子入り
20.グレート・アメリカンケーキへの道
21.グレート・アメリカン・アップル・パイの
作り方のポイント
22.セカンド・イズ・ザ・ベスト
23.ベースボールとアメリカン・ケーキ
24.歴史で味わうケーキ作り
25.未知のケーキとの遭遇(1)
26.未知のケーキとの遭遇(2)
27.卒業
28.遅すぎることはない
29.あとがき
9
若いころもっと本を読んでいれば
アナ先生の授業では、ショート・ストーリーを主に扱うので、英語を読む分量はそれほど長くはないが、プロット、キャラクター、セッティング、ポイント・オブ・ビュー、スタイル、テーマといったものを考えて、自分のコメントをのべることなどが要求された。これを頭にいれておけばいいのだが、私はいちいちノートに書いて復習をしてきた。
この授業は週に二回しかないのだが、一回の授業のために一週間は勉強しなくてはならないほどだった。短い文章を読むのにも私はアメリカ人の三倍の時間がかかったからだ。
作品を読んだ後に、先生が大事なポイントを説明し、次の週に必ず “クイズ” があった。この質問にどう答えるかで、単位を取得する際の評価の三分の一が決まる。残りは、中間テストと期末テストの結果によって左右される。ほんとうは彼女の授業は、成績さえよければ合格できるのだが、先生が言うには、だれもそのことを知らないようだった。
中間・期末テストはどういうものかというと、これがまた難解。「二つの文章を比較して違いや意見を述べよ」などっといった問題だった。英文科でなく芸術関係の課目とか、ほかのものにしておけばよかったと何度後悔したことか。アメリカで英文科をとるというのは、日本の大学の英文科を出た人でも、四苦八苦しているらしい。
先生が授業のなかでとりあげた作品は、カーヴァーの他に、ヘミングウェイなど、主にアメリカの現代作家が多かった。ヘミングウェイは分かりやすかったが、彼を理解するのには、伝記も読んでおかないとダメだなと痛感。これはほかの作家についても言えることだが、私たち日本人がアメリカに住んでみて、初めて分かる日常的な事柄があるように、現代作家の文章を理解するためには、その背景というものを十分知っていないといけない。そこまで要求されることは大変きついことだったが、なんtか少しでも作家の周辺部分も理解しようとがんばった。
授業では、時にはヨーロッパの古典的な作家モーパッサンやカミュなどがとりあげられることもあったが、カミュについては私は正直言ってまるで理解できなかった。作品を読むことはできても、そのなかで、テーマを探したるするのはとても難しかったからだ。
アナ先生は、「良い作品とは読みやすいはず。文章が簡単で、そこに深いテーマがあるもの」と講義していた。その深いテーマについて悩んでしまうのだ。先生が評論を書いていたビート作家のジャック・ケルアックについても、やはり難解だった。彼は小説家ではなく詩人だったからだと思うが、詩のほうが小説よりもさらに難しい。
そもそも日本で、こういう作品を今まで読んだことがなかったのがいけなかったのかも知れない。日本の純文学もわからないのに、アメリカの文学を読みこむのは無理なんだとつくづく思った。そういう心配は最初からあったので、日本の古典も読もうと思って持ってきてはいたのだが、それを読む時間もないほど、英語漬けの毎日。時々、頭が割れそうになるほど、やってもやっても、自分の英語力が止まっている気がしてならない。
そんな私でも、ものを覚えて勉強できるというのが、嬉しくて仕方なかった。この年齢になってアメリカに来て勉強しているという、普通の人ができないことをしているのが、楽しくてしかたなかった。
この歳だったら働きながら、あるいは主婦としておさんどんをしているのが普通だと思う。事実、私も長い間そうしてきた。主人と子どものために食事をつくって、掃除をして、PTAの活動に参加したり、というこをずっとしてきた。それが、180度違って、アメリカで勉強している。なかなか頭に入らない苦労はたえない。「あー、若い頃にもっとちゃんと勉強しておけばよかった」と、つくづく感じることもあった。でも、自由に勉強に打ち込めることの幸せのほうが大きかった。
私は、ELSとアンダーグラジュエイト(大学生)としての授業をアメリカの大学で学んだわけだが、大学生として学ぶほうがグラジュエイト(大学院生)として学ぶより難しいのではないかという気がする。どうしてかというと、大学院は専門知識があるので、それが技術的になればなるほど、ある程度の英語が分からなくても知識で語学の壁を乗り越えることができる。
ところが、大学は知識のないところに英語で知識を植えつけようとするから、なお難しい。しっていることを別の言葉で話されるほうが、知らないことを別の言葉で話されるより簡単だと思う。こう言ってはなんだが、アメリカの大学院を卒業した日本人で、英語を流ちょうに話せない人はいくらでもいる。
この授業は週に二回しかないのだが、一回の授業のために一週間は勉強しなくてはならないほどだった。短い文章を読むのにも私はアメリカ人の三倍の時間がかかったからだ。
作品を読んだ後に、先生が大事なポイントを説明し、次の週に必ず “クイズ” があった。この質問にどう答えるかで、単位を取得する際の評価の三分の一が決まる。残りは、中間テストと期末テストの結果によって左右される。ほんとうは彼女の授業は、成績さえよければ合格できるのだが、先生が言うには、だれもそのことを知らないようだった。
中間・期末テストはどういうものかというと、これがまた難解。「二つの文章を比較して違いや意見を述べよ」などっといった問題だった。英文科でなく芸術関係の課目とか、ほかのものにしておけばよかったと何度後悔したことか。アメリカで英文科をとるというのは、日本の大学の英文科を出た人でも、四苦八苦しているらしい。
先生が授業のなかでとりあげた作品は、カーヴァーの他に、ヘミングウェイなど、主にアメリカの現代作家が多かった。ヘミングウェイは分かりやすかったが、彼を理解するのには、伝記も読んでおかないとダメだなと痛感。これはほかの作家についても言えることだが、私たち日本人がアメリカに住んでみて、初めて分かる日常的な事柄があるように、現代作家の文章を理解するためには、その背景というものを十分知っていないといけない。そこまで要求されることは大変きついことだったが、なんtか少しでも作家の周辺部分も理解しようとがんばった。
授業では、時にはヨーロッパの古典的な作家モーパッサンやカミュなどがとりあげられることもあったが、カミュについては私は正直言ってまるで理解できなかった。作品を読むことはできても、そのなかで、テーマを探したるするのはとても難しかったからだ。
アナ先生は、「良い作品とは読みやすいはず。文章が簡単で、そこに深いテーマがあるもの」と講義していた。その深いテーマについて悩んでしまうのだ。先生が評論を書いていたビート作家のジャック・ケルアックについても、やはり難解だった。彼は小説家ではなく詩人だったからだと思うが、詩のほうが小説よりもさらに難しい。
そもそも日本で、こういう作品を今まで読んだことがなかったのがいけなかったのかも知れない。日本の純文学もわからないのに、アメリカの文学を読みこむのは無理なんだとつくづく思った。そういう心配は最初からあったので、日本の古典も読もうと思って持ってきてはいたのだが、それを読む時間もないほど、英語漬けの毎日。時々、頭が割れそうになるほど、やってもやっても、自分の英語力が止まっている気がしてならない。
そんな私でも、ものを覚えて勉強できるというのが、嬉しくて仕方なかった。この年齢になってアメリカに来て勉強しているという、普通の人ができないことをしているのが、楽しくてしかたなかった。
この歳だったら働きながら、あるいは主婦としておさんどんをしているのが普通だと思う。事実、私も長い間そうしてきた。主人と子どものために食事をつくって、掃除をして、PTAの活動に参加したり、というこをずっとしてきた。それが、180度違って、アメリカで勉強している。なかなか頭に入らない苦労はたえない。「あー、若い頃にもっとちゃんと勉強しておけばよかった」と、つくづく感じることもあった。でも、自由に勉強に打ち込めることの幸せのほうが大きかった。
私は、ELSとアンダーグラジュエイト(大学生)としての授業をアメリカの大学で学んだわけだが、大学生として学ぶほうがグラジュエイト(大学院生)として学ぶより難しいのではないかという気がする。どうしてかというと、大学院は専門知識があるので、それが技術的になればなるほど、ある程度の英語が分からなくても知識で語学の壁を乗り越えることができる。
ところが、大学は知識のないところに英語で知識を植えつけようとするから、なお難しい。しっていることを別の言葉で話されるほうが、知らないことを別の言葉で話されるより簡単だと思う。こう言ってはなんだが、アメリカの大学院を卒業した日本人で、英語を流ちょうに話せない人はいくらでもいる。